お菓子の家
~un petit nid~

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本価格:649(税込)

  • 本販売日:
    2012/09/14
    ISBN:
    978-4-8296-2538-5
書籍紹介

大事なものはひとつでいい

リストラされた加瀬は、強面なパン屋の店主・阿木に声を掛けられ、バイトをすることに。無愛想で人との付き合い方が分からない加瀬にとって、店の温かな雰囲気は馴染みがなく、戸惑うばかりだった。けれど火事に遭って阿木と同居することになり、彼の優しい手にどうしようもなく惹かれていく。優しくされればされるほど阿木に依存してしまい、溢れそうになる感情に加瀬は……。

立ち読み

「気分悪いなら、もう寝るか? ぬるめの風呂にゆっくり入るのもいいぞ」 
こどもをあやすような声音に、瞬間強い感情がわいた。もっと、もっとさわってほしい。頭をなでてほしい。髪を梳いてほしい。抱きしめてほしい。じわじわと地中から沁みだしてくる湯のように感情があふれて止まらない。
「……阿木さん」
「ん?」 
呼んだだけで続きが出てこない。
「どうした?」
問われても、胸を圧迫する息苦しさは言葉にならない。
見つめあったまま、時間ばかりが過ぎていく。焦りに背中を押され、顔をよせ、阿木にくちづけた。
拒まれないまま、一秒、二秒、時間が過ぎる。
唇を離すと、阿木はぽかんとしていた。
「……いきなりどうした」
キスをされたというのに、くちづける前とあまり変わらない。それが腹立たしかった。
「わからない」
いらいらと答えた。本当にわからない。こういう気持ちがいつどこで、どんな風に生まれるのかわからない。けれど生まれてしまったらもうお終いだ。
「……あんたを、好きになったと思う」
言葉にすると、阿木はひどく困った顔をした。
わざわざ問わなくても、その表情の意味くらいわかる。
全身から力が抜けて、目の前に長いトンネルが現れたような気分だった。あかりひとつついていない真っ暗な中を、これからひとりで歩いていくのだ。トンネルに入らない、という選択はない。恋をすると、自分ではなにひとつ決められなくなる。
「なあ、弘明」
優しく名前を呼ばれた。うなだれた頭の上に大きな手がのる。
「やっぱ、今日の海しんどかったんじゃねえのか。いやなこと思いだして、そんでちょっと頭がこんがらがってんじゃねえのか。少し話でもするか?」
優しい手つきで頭をなでられる。たかがそれだけで、融点の低い蝋燭みたいに心が頼りなくとろけていく。自分のほしいものはたかがこれくらいのものなのかと、なんだか情けなくなった。何十円かの駄賃をもらって喜ぶこどもみたいだ。
「……ものなら、よかったのに」
ぽつんと呟いた。
「ん?」
「あんたが、どっかの店とかに売ってるものならよかった。同じものが何個もあって、値札がついてて、かごに入れて、レジに持ってって、金を払ったら俺のものだ」
顔を上げ、ぼんやりと阿木を見つめた。
本当に、阿木が品物ならよかった。そうしたら自分でも買えたかもしれない。高くてもいい。少しずつでも金を貯めて、いつかあれを買おうと希望が持てたかもしれない。
けれど皮肉なことに、ものをほしいと思ったことは一度もないのだ。
自分がほしいものは、いつでも金では買えないものばかりだ。
ただいまと言えばおかえりと返してくれる笑顔だとか、髪や頬にふれてくれるあたたかい手だとか、加瀬がほしいものはたかがその程度のもので、周りにも当たり前のようにあふれているもので、けれど、なぜか加瀬の手にそれらがのることはなかった。
どうしてだろう。どうして自分の手だけ、いつもからっぽなんだろう。

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