狐火の夜

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本価格:682(税込)

  • 本販売日:
    2016/06/10
    電子書籍販売日:
    2016/07/08
    ISBN:
    978-4-8296-2614-6
書籍紹介

 きれなものを汚してしまうのが、怖い。

 大学生の皐は、図書館で厳めしい表情の男・木津根と出会って、どうしようもなく惹かれていく。木津根もまた純真な皐に惹かれ、二人は恋人となった。
なのに、皐は彼のことを何も知らされない。垣間見える不穏さを考えまいとして、木津根との関係に溺れる皐だったが、ある夜、彼の冷酷な顔を目の当たりにしてしまった。そばにいてはいけない、違う世界で生きる人。そう思うのに──。
立ち読み
 「皐、こいよ。抱きたいんだ。おまえの体に触れたくてたまらなかった」
「木津根さん、僕も……」
 抱き寄せられて、そのままベッドへと押し倒される。彼の重みと温もりが戻ってきて、皐の体が嬉しいと啼きはじめる。人はこんなふうに恋に溺れるものなのだと生まれて初めて知った。
 洋服を剥ぎ取られ、体中をまさぐられ、もっともっととねだるあさましい自分がいる。体を開かれて深いところまで彼の手が触れてくると、皐の心はさらに乱れていく。高校生のときの初体験では、快感はあったけれど痛みの記憶もまた強く残っている。けれど、木津根とは痛みさえも心地よさがともなっているようで、彼が与えてくれるものなら何もかもがほしくなるのだ。
「ああ、木津根さんっ、好き……っ。もっと、もっと強くしてっ。もっと深くして……っ」
 体の奥へと潜り込んでくる彼の指を感じながらそう呟く。望むものはすぐに与えられる。皐は大きく体をのけ反らせてその快感を貪ってから、彼のものへと手を伸ばす。自分の中に入ってくるものはすでに充分なほど膨れ上がっている。
「皐、おまえの中に入りたい」
「うん、そうして。でも、その前に……」
 もう何度もしてもらって、皐はその都度快感に身も世もなく啼いてきた。そして、今度こそ同じことを自分も木津根にしたいと思っていた。だから、体を起こして木津根の股間へと自ら顔を埋める。
「初めてだから、あまりうまくないかもしれないけど……」
 それでも、木津根に少しでも快感を与えることができればいい。好きな人のものだから、それを存分に両手とこの口でいとおしみたい。
「無理はしなくていいぞ。おまえにやらせるのは……」
「やらせるのは何?」
 唇を彼のものの先端に押しつけてから、小首を傾げるようにしてたずねる。
「なんだかきれいなものを汚してしまいそうで怖くなる」
 木津根でも怖いものがあるのだろうか。町中で酔っ払いに絡まれても平気な顔でいるような人なのに、不思議なことを言う。
「僕は汚れない。だって、好きな人とすることだもの」
 皐はそう言ってから、唇と舌と指先で丁寧に木津根自身を愛撫する。自分がどうされれば気持ちよかったかを思い出しながら、懸命に嘗めて口に含んでそれを味わった。拙かったと思うけれど、木津根のものが力を失うことはなかったからよかった。
 やがて木津根はもう充分だと笑って皐の体を起こす。そして、座っている自分の膝に皐を抱き上げると、今夜は向き合ったまま一つに繋がった。
「ああ……っ、ふ、深いところまでくる……ぅ」
「この姿勢だと落ちるところまで落ちるぞ。大丈夫か?」
「平気。木津根さんのなら全部ほしいもの」
 そう言いながら、皐は体の位置を安定させようとしっかり両手で彼の首筋に抱きつく。密着する肌が汗ばんで、体の中では熱が激しく渦巻いている。
「ああ、ああ……っ、木津根さんっ、も、もうっ、いくっ、いく……っ」
 皐の声とともに木津根もそのときを迎えようとしている。この瞬間に皐は快感の深海へと沈んでいく。抱き合うともう他の何もいらないと思える。この人の両手が自分を抱き締めてくれて、自分もまた彼にしがみつく。それだけでもう充分だと思えてしまうのだ。
 言葉で何が伝わるというのだろう。肌と肌を合わせて呼吸を一つにする以上に、この人を知る方法なんてきっとない。
 
 
 目覚めたとき寝返りを打って、そこに好きな人の温もりがないことに気づくと皐は横になったまま小さな溜息を漏らす。
 昨夜も木津根は泊まっていってはくれなかった。これまで何度か抱き合ってきたけれど、彼はいつも夜のうちに帰っていってしまう。急な仕事が入ったとか、翌日は早朝から出勤しなければならないとか、いつも仕事絡みの理由だ。仕事なら皐がわがままを言って引き留めることなどできない。でも、寂しい気持ちはあって、そんなときまた考えてしまうのだ。
(ああ、また、何も聞けなかった……)
 仕事だというなら、どんな仕事なのか聞けばよかった。それに、昨夜の木津根は少しばかりいつもと違っていた。あれは微かな血の匂いだと思ったけれど、彼は医療関係の仕事をしているわけでもないし、裸になった本人も怪我をしているところはなかった。雨樋の金具で切ったという手の傷もまだ痕は残っていたけれど、きれいに塞がっていて血が流れているなんてことはなかった。
 だったら、なぜ彼からそんな匂いがしたのだろう。皐の気のせいだったのだろうか。そんなことをつらつら思いながら、その朝もいつものようにキッチンからミネラルウォーターのボトルを持ってきて、それを飲みながらパソコンの前に座る。
 メールチェックをしてからニュースサイトを見て、シャワーを浴びて大学へ行く用意をしようと思っていた。ところが、何気なく眺めていたニュースサイトで気になる記事を見つけた。
『東京近県の○○海岸の防波堤に男性の遺体が浮かんでいるのを、犬の散歩をしていた近所の住人が発見。遺体には暴行の痕跡が見られ、地元警察は事件と事故の両面から捜査をしている。身元が判明した遺体は指定暴力団佐田組の準構成員であることから、分裂後に抗争関係にある烏丸組とのトラブルなどがなかったか確認を急いでいる』
 その記事は昨今では珍しくない例の暴力団関係の記事だったが、皐が目をとめたのはその横にあった被害者の顔写真だった。遺体から発見された運転免許証の写真だと思われるが、皐はその顔に見覚えがあった。髪の毛を短く坊主に近い状態に刈り上げて、もう少しだけ老けさせてみれば、それはあのときの男に間違いなかった。
 亮太と待ち合わせをしているときに、皐に道を聞いてきた黒いスーツ姿の男。彼は木津根の会社の場所を探していた。このとき、急に皐の頭が混乱する。
(えっ、ちょっと待って……。どういうこと……?)
 そう呟くなり、皐の頭の中で様々な映像がまるでフラッシュバックのように映し出されては消えていく。同時に頭に響くのは木津根の言葉と亮太の声。木津根に会ってからの日々が皐の脳裏でビデオの早回しのように流れていく。
 何かが抜け落ちていて、何かが重なって、そして何かがおかしい。皐はパソコンの画面から視線を外し、両手で頭を抱えるようにして考える。
 暴力団組織の分裂と繰り返される抗争。木津根にもらった名刺と社名に肩書。最近事務所を移したという言葉。そこを訪ねていった男。ニュース記事によると彼は佐田組の準構成員だったということだ。木津根は彼が事務所にやってきたと言っていた。その数日後に会った彼は手に怪我をしていた。そして、男は遺体になって海に浮かんだ。
 それだけではない。昨夜の木津根から微かに漂っていた血の匂い。すぐにシャワーを浴びにいった彼は皐を抱きながらなんと言ったのか。
『なんだかきれいなものを汚してしまいそうで怖くなる』
 もう何度も体を重ねているのに奇妙なことを言うと思ったけれど、昨夜も抱かれて何もかも忘れてしまった。そして、一夜明けていつものようにそばにはいない彼。
『残念だけど、世の中は裏のない人間ばかりじゃないんだからさ』
 亮太の言葉が脳裏に浮かんで、心臓が痛くなる。大丈夫と笑った自分だが、本当にそうなのか急にわからなくなる。このとき皐は、さっきまであった足元の地面がガラガラと崩れて落ちていくかのような恐怖を味わっていた。
 木津根を疑いたくはない。けれど、あんなに甘い夜を過ごして一夜明けてみれば、目の前にあるピースはどれも不吉なものばかり。
 九月半ばといってもまだまだ残暑は厳しい。外からは向かいの公園の木にとまる蜩の声が聞こえてくる。皐はしばらくパソコンの前で呆然としていたが、やがて我に返ったようにシャワーを浴びにいく。
 きっとこれは悪い想像でしかない。どんなに不吉なピースが手元にあっても、それが全部にはまって一つの形を成さないかぎり現実と言うには及ばない。そう自分に言い聞かせているのに、バスルームに向かう背中にはいやな汗が流れ落ちている。
 この汗も脳裏に浮かんだ様々な悪い予感や推察も、全部シャワーで流してしまえばいい。そうすれば、また恋に溺れ甘く浮かれた自分に戻れるはずだから……。
 
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