あなたのものにしてください
キスなし、セックスなし。それでも──恋をしている。
保育士の瑞希は極度の男性恐怖症。男性に触れられると過呼吸になって、キスなんて問題外!
でも、そんな彼がお付き合いしているのは経験豊富なオトナの男・黒川だった。
絵本作家である彼は、瑞希の美貌に一目惚れ。
「君の顔が好きなんだ」と口説いているうちに、瑞希の心の美しさに魅了されたのだ。
丁寧に愛を育む2人だったけど、瑞希は黒川のある行動に気付いてしまい…?
気が付いたら朝だった。あのまま眠ってしまったらしい。
(……あったかい)
右手が。
いつ握り替えたのか、瑞希は左向きにうつぶせになり、右手を黒川とつないでいた。
(千里さん、まだ寝てる)
瑞希の手を胸に抱くようにして、黒川はまだ眠っている。ベッドに横たわったまま、彼の寝顔をじっと見つめた。黒川の寝顔は、普段の気怠くセクシーな印象が落ち着いて、穏やかだった。
(こんな顔して眠るんだ)
この人は瑞希のことが好きなのだ。そう思ったら、なんだか不思議な気持ちになった。
きっと、たくさんの恋をしてきた人。大人の恋愛を知っている人。セックスの快さをわかっている人。
だけど、瑞希のことをちゃんと好きでいてくれて、そのうえで、一晩、何もなく過ごしてくれた。瑞希の昔の話を聞いて、それでも「好きだ」と言ってくれた。朝まで手を握っていてくれた──。
(好きな人と、朝まで一緒にいられたんだ……)
その実感は、じわりと胸の奥を熱くする。
だって、彼に出会うまで、想像もしていなかった。
(こんな朝が迎えられるなんて)
好きな人と手をつないで、朝まで一緒にいられるなんて。
やさしく胸を揺さぶる感情は、あたたかな涙を呼び起こす。瑞希は瞬きもせず黒川の寝顔を見つめて、目尻から涙を流した。
(好き)
好きだ。この人が好き。たまらなく好き……。
瑞希の視線に呼ばれたみたいに、彼がゆっくり目を開く。声もなく泣いている瑞希を見て息を呑み、ふわりと目元を緩めた。
「おはよう、泣き虫さん。……かなしくて泣いてるんじゃないね?」
「はい」と瑞希が頷くと、黒川は今度こそしあわせそうにほほ笑む。体を起こし、「触ってもいい?」とたずねた。瑞希も体を起こして頷く。彼はそうっと手を伸ばし、瑞希の涙をぬぐってくれた。
「どうして泣いてるの?」
やんわりとした口調でたずねられる。恥ずかしくて目を伏せた。その拍子にぽろりと落ちた涙のしずくを、すかさず彼が親指でぬぐう。やさしい。一晩瑞希と重ねていた、あたたかな彼の手だ。心の中のやわらかなところを撫でられているみたいだった。それがたまらなく心地いい。
「千里さん、好きだなぁって……」
「そんなことで泣いてくれるの?」
ふふっと、彼はくすぐったそうに目を細めた。「そんなこと」じゃないのに。瑞希にとっては奇跡みたいなことなのに。
「ねえ、抱き締めたいな。怖い?」
そっと、気持ちを差し出すみたいにたずねられ、瑞希は首を横に振った。今なら大丈夫な気がしたから。
そうっと、臆病な小動物を手のひらに囲い込むときみたいな手つきで、黒川が瑞希の肩を抱く。一晩包まれていた彼の匂いが強くなった。苦みをおびたウッディノート。やわらかな抱擁でもわかる、大きな体。男の人だ。瑞希のことを好きでいてくれる、男の人。
「……」
唇が震えた。「怖くない?」と黒川がきく。頷いた。怖くない。彼だったら、怖くない……。
「好き、です」
吐息のような声になった。
服越しに彼のぬくもりが伝わってくる。互いの首筋に互いの髪が触れる。性的にならない、最後の距離。黒川の服を握り締める。
「瑞希くん」
名前を呼ばれた。予感がした。顔を上げたらどうなるか、本能みたいにわかっていた。だけど、瑞希は顔を上げた。
目尻をやんわり下げて笑う、やさしい困り顔だけど、瞳の奥に焦がれるような色がある。これとよく似た視線を、瑞希は知っていた。自分に向けられる欲望の目。だけど、そこには腐臭ただよううろはない。ただただ純粋な好意と情熱に輝く瞳があるだけだ。
「キス、したいな……」
かすれた囁き声が言った。
「ごめん。困らせたくないんだけど、正直な気持ちを言わないのもなって……。気にしないでいいから」
瑞希はぎゅっと目をつぶった。肩がこわばり、唇が震える。全身こわばってガチガチになっている。たぶん黒川にも気付かれているだろう。でも、怖いわけじゃない。──今じゃなきゃ無理だ。
くん、と上向き、背筋を伸ばして距離を詰めた。瑞希から。
一瞬だけ、唇で頬に触れる。ざらりとした髭の感触。
「……」
体を離して目を開けた。黒川は呆然と目を見開いてこちらを見ていた。しばらく反応をうかがっていたけれど、あんまり見つめられて、じわじわと顔に血が上る。たまらず両手で顔を隠した。
「……そんなに見つめないでください」
「えっ!? あっ、ごめんね!?」
いつになく慌てた声で謝って、黒川は体を引いた。
それから、呆然としていた顔が、だんだん融けてくずれそうな笑顔になって。
「……好きだよ。瑞希くんのこと、大好きだ」
心を明け渡すみたいな声に、泣きそうになった。せつないのでも、うれしいのともちょっと違って、ただ、感動したのだ。
瑞希は「僕も」と頷いた。
うれしくて、しあわせで、心が融けてしまいそうだった。
- プラチナ文庫
- 書籍詳細